この記事は私自身に向けて、あらためて保守運動とは何かということを見つめ直すために記述しております。
今一度、保守運動のありかたを考え直してみる必要も大切ではないかと考えております。この記事には、鼻持ちならない説教じみた文節があったり、聞き手によっては受け入れられない乱暴なことが書いてあるかもしれません。
あまり過激なことを好まない方はお読みにならないほうがよろしいかと思います。
私たちの意見を世の中に訴え、聞いてくれる人を増やすためには、まず声を大きくしていくより他に方法がありません。
では、声を大きくするとは、どういった意味なのでしょう。
どんなにひとりの声が大きくても、自宅から首相官邸まで声が届くわけありません。
声の大きさとは“人数”に他なりません。
これはどなたでも理解していると思います。
しかし、本質的に“人数を増やす”ことがどういったことなのか、なかなか理解するのは難しいかと思います。
戦いとは数の勝負です。
数の威力で押し切ることです。
数量によって異論を封じることです。
物量による圧力で敵対勢力を打ちのめすことです。
どんな正論も、どんな美しい正義も、数には勝てないのです。
数が少ないことほど無力感を感じることはありません。
わかっているようで、わかっていない原理です。
日本人にとっては受け入れづらい真理です。
戦いにおいて、理論や知識、そういったものはあくまでも小手先の戦術です。
戦術の上位たる戦略の根幹は“兵力や兵站”すなわち物量です。
どんなすぐれた理論も知識も、物量の前ではなぎ倒されてしまいます。
理論や知識で勝利が得られるなら、行動する保守運動はとっくに世界を席巻していたことでしょう。
戦いで勝利するためには、数によって相手を押しつぶすことのみなのです。
日本人は穏健な民族で、日本国土は優しさで満ちあふれています。
だから『数で押し切れ』とか『物量で圧倒しろ』という理論は、なんとなく乱暴で威圧的だと感じてしまいます。
当然です。そんな物騒な話を日本人が好むわけないのです。
私だって日本人ですから無意識にそう感じてしまいます。
ですが、戦いは数の圧力には勝てないのです。
理屈としてはわかっていても、数が勝負をわけることを本質的に理解している人は少ない。
でも、本当は子供だって理解しているのです。
先生「民主主義とはなんですか?」
生徒「多数決で決めることで~す!」
先生「多数決ってなんですか?」
生徒「多いほうが勝ちで~す!」
このていどのことは子供でも理解しています。
しかし、民主主義における方針決定の手段は必ずしも多いほうの意見が選択されるわけではなく『少数意見の尊重』という概念も存在します。
おそらく中学生の公民か何かの時間に習ったと思います。
多いほうが勝つなら、それはある意味、多いほうによる独裁となってしまいます。
それは正しいことではありません。
民主主義は等しく意見を聞くことを大切にしています。
しかし、これはあくまでも建前です!!
民主主義を素晴らしいものに見せるためのお飾りです!!
少数意見も尊重するなんて、勝てる者が自分を美しく見せるためのパフォーマンスです!!
現実の世の中では、多いほうが必ず勝つのです。
少数でも正論なら勝てるなんて思うほうが異常な発想なんです。
数の多さで押し切ることが現実世界なのです。
弱い者、少数意見は封殺されるのです。
物騒な言葉は控えて、話し合いの場を持ちましょう。
力ばかりがすべてじゃない、誠意を尽くそうよ。
世界はきっと日本の正しさをわかってくれる。正しい姿勢を貫こう!
耳障りの良い言葉は日本人の気質として受け入れやすい。
耳をふさいで乱暴な言葉を聞かず、穏やかな言葉で飾っていれば、角も立たず楽に済むし、自分の姿を美しいままにしておくこともできる。
日本人はどうしても
『問題(トラブル)は解決しなければならない』
『話し合って正しいことを続ければ問題は解決できる』
『問題を解決するためにはどうすればよいのか』
と考えてしまいます。
とても良い国民性で誇らしいと思います。
この国民性が日本を技術大国、経済大国に押し上げました。
しかし、国内のことはともかく、外国の問題は別です。
国と国との問題は解決できない。
外国との問題は基本的に解決できないのです。
特に日本の隣国である、あの国々との問題はぜったいに解決できません。
日本とあの国々とのことばかりでなく、世界中、国と国との問題は、未来永劫、解決できないのです。
でも、嫌だからといって国土を引っ越すわけにもいきません。
解決できないまま、あの隣国と付き合い続けなければならないのです。
私たちの努力で支那は変わったりしません。
私たちの誠意で朝鮮は変わったりしません。
彼らは数千年の間、ずっとああだったのです。
これからも、ずっとああなのです。
日本は数千年、ずっとああいう国の隣国をしてきたのです。
ぜったいに彼らが変わることはないのです。
■ マキャベリ 君主論
隣国を援助する国は滅びる。
次の二つのことは、絶対に軽視してはならない。
第一は、忍耐と寛容をもってすれば、人間の敵意といえども溶解できるなどと、思ってはならない。
第二は、報酬や援助を与えれば、敵対関係すらも好転させうると、思ってはいけない。
政治に興味がある人なら、まず読んだことがあるであろうマキャベリの君主論。
なにか思い当たる節はありませんか?
今の日本に合致する部分はありませんか?
むしろすべて合致していませんか?
弾道ミサイル撃たれましたが、遺憾に思いながら我慢忍耐。
韓国がうるさいから10億円プレゼント。謝罪のオマケ付き。
だらしないというレベルではありません。
国の代表として、やってはならないことを連打しているのです。
現在の政府は『こういうことをすると国が滅びる』ということを続けているのです。
美しい国、日本
言わずと知れた安倍晋三のキャッチフレーズです。
非常に耳障りの良い言葉です。
しかし、これはもはや完全に政治家の論理ではありません。
個人でやるぶんにはかまわない。
だが、それに巻き込まれる国民は、たまったものではない。
私も美しい日本が好きです。
物騒なことなど考えず、誠意を尽くして問題を解決していければ理想的だと考えないわけではありません。
私も日本人ですので、ついそういった考えに流されそうになることがあります。
ですが、現実は『勝った者が正しい』のが原則、原理です。
そこには正義も悪もありません。
それを否定して少数派に甘んじるのは、負け犬の遠吠えでしかありません。
世界は弱い者の味方はしてくれません。
勝った者だけが生き残る資格があるのです。
大航海時代以降、現在に至るまで、世界の歴史は『勝ったものが正しい』という理論で動いています。
日本にはお金がある。軍事力だって相当なものです。
だから友好的な国があるんです。
日本が持たざる者なら、誰も日本の相手なんかしてくれません。
日本が誠意的な国だから付き合ってくれているわけではありません。
“持つ者”だから付き合ってくれる外国があるのです。
敗戦後、日本に向かって好意を向ける国なんかありませんでした。
東京裁判でインドのパール判事が日本の味方をしてくれたという話は美化されたもので、たんに戦勝国による法の歪曲を指摘し、インド独立という自国の利益のために白人社会を牽制しただけのことです。
戦争に負けて、日本は世界からヘドが出るほどイビられ続けました。
なぜなら『ジャップのせいで白人世界は植民地を失った』からです。
日本のせいで、世界から植民地は一掃されました。
白人社会は、言葉では表現しづらい敗北感を日本人から味わわされました。
だから、徹底的に日本に“悪のレッテル”を貼りました。
戦勝国による数の暴力、裁判という名のリンチです。
しかし、苦難の復興を経て日本が“持つ者”になったから、外国は日本の相手をしてくれるようになりました。
昨日までイビり続けていても、利益になるなら手を組む――それが世界の考え方です。
目先の利益につられて支那や韓国と商売し、不良品ばかりを押しつけられている世界。
日本人が考えているほど世界は利口ではないのです。
あくまでも『利害が一致している間の友好国』なだけなのです。
儲けるために日本と手を組んでいる、ただそれだけなのです。
赤信号、みんなで渡れば怖くない
これが世界のありかたであり、勝つためにもっとも必要な要素です。
「そんなことはない! 赤信号で渡るのは悪いことだ!」
たしかにそう思うことは正しいことです。
私だってそう思います。
でも、負ければ赤信号で渡ることが正義となるのです。
負けたら終わりなんです。
赤信号で渡ることが悪だと主張したいなら、青信号で渡る人を多数派にすることで『これが正しい行為なんだ』と示すしか方法はありません。
赤信号で渡る無法者が多数派なら、もはやその行為を実力行使で排除することは物理的に不可能となり、無法者こそが“正義と化す”のが現実社会なのです。
いまだに世界では、そういった無法行為が起きているのです。
国会での議論がテレビに放送されたりします。
あれは、あくまでも『議員はこんなに討論してますよ~、がんばってますよ~』ということを国民に刷り込むためのパフォーマンスにしかすぎません。
だって、テレビを通して国会の討論を観ることで、いったい国民になにができるんですか?
「いまテレビ観てたんですけど、あの議員の主張は間違ってる!」と、国会議事堂に電話でもかけますか?
そんなことをして、なにが変わりますか?
次の選挙が来るまで国民にはなにもできません。
現実は、多数派が動員数に物を言わせて押し切る形で法案や政策が決定されていくのが実情です。
そうやって『トンデモ法案』が可決され、世の中に排泄されていくのです。
そうやって必要もない増税が繰り返されていくのです。
人間の行為には正義も悪もありません。
勝った者が正義を名乗る資格を得るのです。
自分たちの生活に害となるものを排除するのに、乱暴な言葉もへったくれもありません。
自分の理想を実現させたいなら、戦って勝ち取るしかないのです。
穏やかな国土を取り返したいなら、戦って取り返すしかないのです。
自分の主張が正しいと認めさせたいなら、数によって反対勢力を押し切り、相手をなぎ倒してでも勝利をもぎとるしかないのです。
戦わない人間に正義を語る資格はないのです。
物騒な言葉を否定したい気持ちはわかります。
私も、できれば乱暴な言葉など使いたくありません。
ですが、そういった優しげな日本人の価値観は、世界では通用しません。
言葉も通じない在日朝鮮左翼には、なおさら通用しません。
理想や正論は、不法に道端にたむろす在日朝鮮人に通用しますか?
本能むき出しで襲いかかってくる韓国人の暴力に、正論は通用しますか?
議論なんかしようとしている間に、殴りかかられるのではないですか?
彼らは民族の生存をかけた戦いをしているのです。
明日のメシが食えるかどうか、彼らは死にもの狂いで戦っているのです。
北朝鮮も、韓国も、明日にはどうなるかわからない国家です。
いざというとき、国を失った彼らは、日本の中で生き残りをかけた壮絶な戦いをしかけてくることでしょう。
彼らは命をかけているのです。
民族の存続をかけているのです。
食うか食われるか追い込まれているのです。
そんな彼らに、私たちの美しい正論は通用しますか?
通用しないんです。
日本の出方次第では、明日からメシが食えなくなり、住むところも失い、死ぬかもしれない。
そんな相手に正論もへったくれも通用するわけがないのです。
生き残りをかけて命のやりとりをしかけてくる相手に話し合いなど通用しないのです。
『殺してでも奪い取る!』
彼らはそういう環境で生きているのです。
私たちが戦うべき相手は、そういう民族なのです。
彼らは自分の命をかけて戦っているのです。
乱暴な言葉から目をそむけていられるのは、日本が平和だからです。
日本は長い間、外圧というものから守られてきました。
平和に守られているから「過激なことはやめようよ」なんて言っていられるのです。
家に帰れば温かい風呂に入ることができ、おいしいご飯を食べられ、心地よいベッドで安心して寝られる。
そんなぬるま湯の中で生活している私たちが、言葉やさしい理論を使って、死にもの狂いの在日朝鮮左翼に勝つことができるでしょうか。
死にもの狂いの相手には、こちらも死にもの狂いになって立ち向かうしかないのです。
だからといって、さっそく明日から全力で運動に身を投じることは不可能でしょう。
こんな記事を書いている私自身、たいしたことはできません。
仕事もあるし、学校もあるし、プライベートだってあります。
ただの市民である私たちには大きな運動をすることはできません。
だからこそ、できる範囲での小さな運動を疎かにするわけにはいかないのです。
たった1通のメールでかまいません。
たったひとこと「メール送ったぜ! みんなも送ろうぜ!」という言葉でかまいません。
その言葉に励まされ、また別の人も運動に加わってくれるかもしれません。
普段使っているメールで抗議をするのが怖いなら、抗議専用の捨てメールを取得すれば怖がることはありません。
抗議用の専用メールをgoogleで取得すれば、google+が利用できますので、Twitterの内容をコピペするだけでも新たな拡散用のSNSとして活用できます。
志を同じくする人とのTwitterフォローは、情報共有はできても、日本第一党を知らない人への拡散能力に限界があります。
google+や
職場など、ふとしたきっかけを見つけて
「‥‥ところで外国人問題って大変だよね」
と、さりげなく切り出すこともできるでしょう。
おそらく、ごく普通の人は「え? 外国人問題? なにそれ?」と、始めてこの話題にふれることになると思います。
普段、私たちが得てきた知識は、そのときのためにあるのです。
学校の友人に、
「なんか移民とか難民でヨーロッパがすげーことになってるな! 外国人を受け入れるのってヤバくね?」
と、欧州の街並みに移民があふれる動画のURLを送信するだけで危機感を感じる友人が増えるかもしれません。
家族や知り合いに、
「新聞を読むのはやめようよ。嘘しか書いてないし」
と不買を勧めるのもよいと思います。
地方に住んでいてデモに参加できない‥‥
夜勤だから行きたくても行けない‥‥
口下手で人に説明するのニガテだし‥‥
そんなことに引け目を感じることはありません。
自分なりの運動があるはずです。
できる範囲でかまいませんので、もう一歩だけ踏み込んでみることが大切だと思います。
苦労なくして勝利をもぎとることはできないのです。
■ マザーテレサ 日本人への提言
大切なことは、遠くにある人や、大きなことではなく、目の前にある人に対して、愛を持って接することだ。
日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります。
「汝、隣人を愛せ」とは愛が身近な人々から始まるということであり、日本の貧困を見捨てて海外の貧困を救済する輩は偽善者なのである。日本人なら、まず日本人に手を差し伸べるべきである。
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